泰阜村長 松島貞治氏

「信州自治」という冊子がある。
長野県内の自治体の情報などを伝える月刊誌だ。

月がわりで首長が文章を寄稿しているページがある。12月は泰阜村村長だった。

泰阜村と言えば、田中康夫知事の時代に彼の住民登録をしたり、物議をかもした村だが、自立を志向して合併問題についても様々な意見を表明している村長をトップに、なかなか理念ある村づくりをしているところだ。興味は持っていたが、これまで細かく調べた事は無かった。

今回の村長の文章には個人的に、とても共感できるところが各所にあった。
文章もうまい。理念を感じられ、人の心を動かす文章とはこういうものだ、という一つの典型であろう。

この人は、元役場の職員。元公務員でも、こういうことができるのかと正直驚いた。公務員に偏見を持ってはいけない。全文を引用したいが、丸写しは版権上いろいろ問題なので、一部引用とする。
興味を持った方は是非現物にあたってもらいたい。

首長随想
「貧すれど貪せず」泰阜村長 松島貞治

 起伏の激しい地形の中に、山の斜面にへばりつくように集落が散在している。先人は、何を思い、何に期待してここに住み着いたのだろうかと思う時がある。

どうすれば首長が自分の村を、このように客観視することができるのだろう。信州自治の巻頭言で紹介される首長さんたちは、申し訳ないが自画自賛的な文章しかかけない。この差は何処から来るのだろうか。

その泰阜村に生まれ、村を離れた経験をせず今日を迎えている。村の歴史を振り返りそれを一言で表現するなら「貧しさとの戦い」といえるだろう。

松島村長の文章を読むまで、私は自分の故郷を客観視するためには村を離れる事が必須条件だと思っていた。何とも自分が恥ずかしい思いがする。

記録によれば昭和十年の人口は、5800人を超えていた。昭和恐慌と重なった時期でもある。昭和十三年泰阜村議会は、国の満州移民政策に乗り、満州泰阜分村を建設する計画を決定した。村の人口の半分を送る予定だったと聞くが、応募者は少なく隣村の協力も得て、最終的に1174人の開拓団を満州に送った。当時、耕地の少ない村で6000人の食料を確保することは困難であり、貧しい村の悩んだ末の結論であったと思う。

飯田市を中心とした「長野県のしっぽ」の辺りを、地元では「南信州」と呼ぶ。戦前までのこの地域は農村であり、東北と変わらないくらいの貧しさとの戦いの日々だったと言う。
その中で「満州」への移民政策が始まった。沖縄からはブラジルへ。長野県からは中国大陸へ。国家の直接的な保護の有無からすれば中国大陸の方が良さそうに思えるが、後にそれが悲劇を生む事になったのは言うまでもない。

心を打たれる話は、それより前、昭和五年、当時も米国発の恐慌、政府の金解禁で日本経済は混乱、生糸の暴落で田舎の暮らしは苦しく学校へ弁当を持ってこられない子供もいた。村財政も窮乏、教員給与が支払えなくなり、先生たちの給料の一割を村に寄付して欲しいと要望した。

日本にもこんな時代があった。それもそんなに前の話ではなく、今もご存命の方が沢山いる時代の話だ。

その時の吉川宗一校長先生(喬木村出身)は「お金を出すのはやぶさかではないが、給料の一部では学校費のわずかを補填するだけにすぎない。むしろそのお金は、将来を担う子供たちの教育振興に役立てるべきだ」と考え、将来は、美術館という熱意を込め美術品の購入を提言。それを村長や議会が聞き入れ、情操教育のための美術品の購入を始めた。戦後、昭和二十九年にその意思が引き継がれ、村民の協力で「学校美術館」が建設された。
 吉川校長は、どんなに物がなく生活が苦しくても、心だけは清らかで温かく、豊かでありたい、という願いがあり、それは「貧しいけれど、心は貪しない」という信念であった。

「博物館」でもなく「図書館」でもなかった。「美術館」。
何故だったのだろう。いつか知りたい。

 貧しい村の歴史を思うとき、この二つの出来事は、多くの示唆を与えてくれる。70年前、過密で苦しんでいた。いま過疎を卑下していては、満州で散った先輩たちに失礼ではないだろうか。いまも教員や役場の職員に寄付を求めたいほど財政も苦しいが、寄付してくれたお金を明日の生活のために使わず、次世代のことを考えて我慢した先輩もいる。
 いまできることは苦しい中で生きてきた先輩たちの心のタスキを、たとえ、ふらふらになっても次世代に渡すことだと思う。

どうしても時々、読み返したい文章だ。最後の一文はほんとうにすごいと思う。
「いまできること」は何なのか。何度でも考え直したい。