放送大学 「公衆衛生」つづき。

公衆衛生 (放送大学教材)

公衆衛生 (放送大学教材)

 日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、全ての生活部面について、社会福祉社会保障および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
 冒頭、著者は、この条文のもとに人々は公衆衛生や社会保障体制を作ってきた、と述べている。
 行政に関係する学問を学習していると、こういう言い方にしばしば出くわす。その度に本当に違和感がある。本当に人々は憲法を胸に体制を作ってきたのだろうか。
確かに、本書に掲げられるような保健所を作ったり、国民会保険体制を作るために奔走してきた役人や政治家、学者の皆さんの努力は認める。彼らは憲法とそれに基づく法律を根拠に戦ってきたのだと思う。
ただ、日本の保健体制は農村的地縁社会に立脚している。地域の保健委員会や栄養指導の集会に出ている女性のみなさん(大抵の地区では男性はほとんど来ない)は、憲法の条文にそう言うのがある位は知っているけれど、その実「役員だから仕方ない」「出席すれば勉強になるし」という事を口にする。それが家族の健康や食事を改善することに大いに貢献してきた。その証拠に、行政がいくら理念や法律を振り回しても、地域コミュニティが受け入れなかった施策の殆どは掛け声倒れで終わっている。
 そもそも、憲法や法律が中心であるかのような誤解を与える表現は私は好きではない。少なくも、私はそんなつもりは無い。法はただの道具である。第一義的に役人や政治家の暴走を縛るためのものであって、「この条文のもとに」などと、金正日の写真のように掲げるものではない。法は空気のようなものであるべきだと思う。そもそも「常識で考えればわかりそうなことは、常識通りに行動すればたいていうまく行く」という状態になるように、法律は作られていたはずだ。

人が家族の健康を望んだり、病気の自分を忌避することは、憲法があるからではない。
保健体制の難しさは、個人と社会の関わりにあると思う。健康は純粋に個人と家族の問題である。しかし、伝染病を予防したり、医療体制を整えるには社会全体の取り組みが必要だ。新たな保健体制の地平は、社会と個人のあり方を整理し直さなければ見えてこないのではないか。

人と社会のあり方が急速に変化し続けている昨今に置いて、テーマはそこにこそあるべきではないか、と思った。