失われた言葉に

暦の上では「立秋」というものがあるが、諏訪地方は8月15日の花火大会が終わると、一気に秋になっていく。少なくも私は小さい頃からそう思っていた。実際に寒くなる。

気がつけば今年の夏は終わっていた。
今年の夏「も」と言うべきか。

天吾と青豆の10歳の頃の話は、私を14歳だったころに時間遡航させてくれた。隣の席の女の子のことを、本当に好きだった。いつも明るく、きゃあきゃあ騒いでいるような子だった。
彼女のことを最初に意識したのは、中学一年生の時。彼女の親友が不慮の死を遂げたときだった。「友人が死ぬと言うことはどういう事なのだろう」。そんな目で彼女を見ていた。

 中学二年生の時、彼女の隣の席になった。彼女が授業で困ると、わからないところを教えるのが私の役目だった。それまでの私は、少しばかり勉強ができることを鼻にかける、しょうもないオタクだった。ところが、彼女に同じように接したところ、とても傷ついたようだった。私はとても当惑した。自分がとても恥ずかしかった。あれ以来、今も人にモノを説明するとき、いつも彼女のことを思い出す。うまく彼女が理解できると、とてもうれしそうにほほえんで「ありがとう」と言ってくれた。その言葉がとても私の体を温めてくれた。

 彼女はまた、ちょうどその頃、家庭内の不和でふさぎ込みがちだった私を励ましてくれた。励ましても元気が出ないときは、心配そうな顔をしてくれた。誰かに気遣ってもらえるというのは、とても暖かいことだ。

 何か失敗をした日の翌朝は、まるで昨日のことなど何も無かったように、明るく接してくれた。最初はそういう性格なのだと思っていたが、そうではないことを私は後で知ることになる。気がつけば私の生活に彼女は、無くてはならない存在になっていた。二回にわたる席替えによっても、彼女の隣の席をいろんな手を使って確保した。成績優秀な優等生の特権を利用したが、クラスメイトたちは何も言わないでいてくれた。彼女も私のことを悪くは思っていないようだった。少しだけ、好意を持ってくれていたようだった。(数十年後の同級会で確認済み。私の思い込みではない。念のため)

 この地方の中学校には、クラス替えというモノがない。3年生になり、新しい席も彼女の隣になった。しかし、私の家庭は事実上崩壊状態にあった。父が暴力をふるうようになり、母は毎晩のようにヒステリックに叫び続けていた。受験勉強のデットヒートが始まると、私は壊れ始めた。もともと弱い人間なのだ。角にたまったストレスは、はけ口を求めていた。何故か私は彼女に冷たく当たるようになってしまった。

 私の態度が変わったことに、彼女はとても当惑した。とても傷ついていたように見えた。そのことが私をいらだたせ、また彼女につらく当たった。そのたびに彼女が哀しそうな顔をしていた。
 卒業後、彼女と別れる段になって、はじめて彼女の大切さに気づいた。だが、私たちは修復不能な関係になっていたように思う。彼女につらく当たった自分の弱さを、私はその後、自分で自分を長い間せめ続けた。精神に変調をきたし、学校を休みがちになった。当然の報いだと私は思った。勉強を教えて、「ありがとう」と言ってくれる人はもういないのだ。その事実に気づいたとき、私は私であることがわからなくなってしまった。

 人づてに、彼女に彼氏ができたことを聞いた。そのことは現実のこととしてつかめなかった。

 東京の大学へ行ってからは、天吾がそうであるように、他の生身の女性と関係を持つことで、彼女のことを少しずつ忘れていった。けれども、ときどきふと彼女の記憶が帰ってくると、自分がどうしようもない人間だと言うことを思い出した。やむを得ず、彼女の記憶を心の奥底に沈め、コンクリートでふたをすることにした。

 多くの怠け者の学生と同じように、私は就職に失敗しフラフラしていた。ところが、父の病が私を実家に呼び戻した。見舞いに行った病院でばったり彼女に出くわした。彼女は看護師になっていた。しかも、父の担当の。

そして、姓が変わっていた。だれかしらない、どこかの人の姓。
何故か流れた時の長さと、私の前を通り過ぎていった人々の数を思い出し、「やあ」と言ったきり、何も言えなかった。彼女も「久しぶり!」と言ったまま、その次の言葉が出てこないようだった。

父の退院後、彼女とは連絡が絶えた。

数年後、卒業15年を記念して同級会が開かれた。
私は学生の頃の友人と結婚していた。彼女に会えるかどうか、会ってどんな顔をしたらいいかわからなかったが、出席することにした。

彼女は来ていた。30歳を迎えて、昔のようなあどけなさと優しさが同居した雰囲気の他に、何か苦労をしてきたような雰囲気があった。
何か一言話したい。謝って席が遠くて話せそうもない。仕方なく近くの席の友人たちと昔話に花を咲かせていると、記憶のある気配が左隣に座った。

彼女だった。席を移ってきたのだ。
周りにいた友人がそれとなく席を外してくれるのがわかった。すまん。


私「・・・久しぶりだね」
彼女「うん」
私「元気だった?」
彼女「うん」

・・・・
会話が続かない。でも、気まずい感じはしない。
黙って俺の知らない、彼女の「元気だった」時間に思いを巡らせていたところ、彼女と目があった。そういえば、あの頃もこんな事があったことを思い出した。そういうとき、物思いにふける俺を彼女はじっと待ってくれていたんだった。あの頃と同じ。

彼女「お父さん、元気?」
私「ああ、うん。ありがとう。何とかやってるよ。看護師になったんだ。すごいよな」
彼女「私ね、数学いっぱい勉強したんだよ。○○くん(←私)に言われてさ、やらなきゃって」

・・・俺?

彼女「○○くんはその後どうしてたの?」
私「勉強は・・・あまり、してないんだ」
彼女「・・・どうして?」

彼女は驚いているようだった。勉強ばかりしていた私のイメージがあったから、ということではなさそうだ。彼女は私と分かれた後も、私が勉強していると思っていたのだろう。そのことを、なんらかの道しるべの一つにしていたのではないか。


私「・・・・まあ、いろいろあったんだよ」
彼女「そう」

彼女「あのね、私ね、再婚するの」
私「え?」

再婚?

彼女「・・・いろいろあったの」
私「そうか」
彼女「病院も辞めようかな、と思ってる」
私「・・・大変なのか」
彼女「いろいろあったの」
私「そうか」

しばらく、彼女の「いろいろ」について思いを巡らせた。その間、彼女は待っていてくれた。
だが、ふと彼女の顔をのぞき込むと、とても哀しそうな目をしていた。

心の底の方で、コンクリートのふたが動く音がした気がした。

言おう、あの頃、君が好きだったと。そして今でも、心の底で君を大切に思っていると。あの頃は若くて馬鹿で、無力な俺はあなたを傷つけてしまったと。でも、それだけに、本当の、混じりっけなしの気持ちで、あなたを愛していたことを。


私「あのさ」
彼女「ん?」

呼吸を整えようとビールグラスに手を伸ばしたそのとき、邪魔が入った。

「いよう、おふたりさん!あ〜あ、すっかりふけちゃったね、○○ちゃん」

割って入ってきた男は、いつもバレンタインデーで数十コチョコレートをもらっていた。クラスで一番もてていた。こいつは昔から嫌いだった。


私「・・・なんだと、もう一度言ってみろ」
彼女「やめてよ、私はいいから」
私「だめだ。だいたいなんだよ、おまえは!」

その後はもう、ぐだぐだだった。

1Q84 BOOK 1

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