言葉の選び方

例によって村上龍編集長のJMMから。
「崩壊」という言葉を使った理由について考え、それが背景にあきらめのようなものがあるのではないか、喝破する。続けて「あきらめは安らぎをもたらす」と痛烈に(?)批判し、言葉は慎重に選ばれるべきだと結んでいる。

あきらめが安らぎをもたらす、という批判は胸に響いた。


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ーーー以下引用ーーーーーーーー
■■ 編集長から(寄稿家のみなさんへ)■■

 Q:901への回答、ありがとうございました。医療崩壊という言葉が目立つようになりました。先週のこのエッセイに、「地域医療の崩壊はすでに現実のものになりつつあるようです」と書きましたが、「もうすでに崩壊しているというのに、認識と表現が甘すぎる」ということを言う人がいました。わたしは、「崩壊」という言葉が多用されるのはどうしてだろうと思います。かっては、「学級崩壊」「教育の崩壊」などと使われました。おそらく、状況の深刻さを訴えて危機感を促す意図があるのだと思われます。

 しかし「学級崩壊」が話題になっていたときも、学校の教室が災害で崩れ落ちたわけではありませんでしたし、クラスの生徒が全員授業を放棄したわけでもありませんでした。小学校の低学年の教室で、教師の指示に従わない数名の生徒がいて、そのクラスで円滑な授業ができなくなったというような意味でした。医療でも教育でも環境でも、事態の深刻さを訴えるのは重要なことです。ただし、「事態の悪化はもう避けられず、今さら対策を講じてももう遅い」というようなニュアンスの悲観主義的な訴えかけは、ときにあきらめを生むのではないでしょうか。

 あきらめることは、ある種の安らぎをもたらします。努力を放棄することが許されたような気がして、楽になるのです。医療や介護や年金、それに教育の問題は、中央と地方の財政状況を考えると、絶望とあきらめを生んでも不思議ではないのかも知れません。でもそういうときこそ、言葉は慎重に選ばれるべきです。状況の深刻さを訴えるときに極端な表現を使うのは、全体的に豊かになっていき暗黙の希望が社会に充ちていた高度成長時代の名残かも知れません。