雨の雫は傘をつたい、彼女の方に流れていった


しがらみを振り払って外に出たいと思うことがある。
モラトリアムしていた時代、そんなことを繰り返していたことがあった。

多くの不義理を作り、そして少なくない人を傷つけ、あるいは不快にさせた。私に古くからの友人が少ない理由は、そうした私の性質が関係あるのだろう。

当時の自分を振り返るのは、小さくない痛みと自責を伴う。
だからそうした記憶は、古い蓋つきの瓶に入れて、普段は海の奥に沈めてある。

その時はそうするしかなかった。
出会ったり、関ったりすることがあるのなら、反対に「立ち去る時」というのが人にはあると思う。
 他者は時として居心地のよさをつくる。
 しかし、その他社に足をとられることもある。たとえそれが、かけがえの無い友人であったとしても。

「居場所」が重荷となったとき、振り払って次の世界へ進むことを繰り返すうち、あるひとつのことに気がついた。

いったい自分は、いつになったら踏みとどまれるのだろう、と。

あるとき、ある人との出会いがこの街に踏みとどまることを決めさせた。
決心を私に促したその人は、すでにこの世にいない。

事の必然としてだが、踏みとどまる側になった私は、誰かの居場所になることになった。
そして、居場所であるところの私は、自分のときにそうであったように、「しがらみ」ともなることにもなった。
 
私の属する世界を居場所とする人がいる。別に私への好悪は関係なく、この街の中で暮らそうとすれば、自然、そういうことになるのだから仕方ない。
私自身がいつか、ある人の「しがらみ」となってしまい、その人が私の手を振り払い、次の世界へ行こうとしても、腹を立てることなく、見送ろうと思う。例えそのことで、私の属する世界が損なわれることになったとしても。

かつて私も、そうすることが必要だったように、その人にも必要なことなのだから。
私がそうする事で、いつかその人が、立ち止まって自分が来た道を振り返るときに、その痛みが少しでも軽いといいなと思う。