住宅の所有について

「私たちはなぜ家を買うのか」(村上あかね)から。

 

子供への親からの贈与について。

自分の子供に自分と同程度の経済的地位を得てほしいと考えて生前贈与が行われる、というのはあり得る話だなと。その期待は親の自己アイデンティティの拡張ではないかと。

 


なるほどな。

 


日本の持ち家率は6割。秋田と富山が8割、東京と沖縄が5割だそうだ。

日本の持ち家率は高く、英米の65%とほぼ同等、仏独の50%未満を大きく上回る。

1970年代に団塊世代が結婚子育てに入り郊外に家を買い始めるまでは戸建ては高嶺の花だった。

それなのになぜ家を買うのがマジョリティだと思うのか。

 


農村から大都市に移った人々の住居は狭かった。供給不足が価格の高騰を招いたからだ。

戦前、大阪市長の関一は環境の悪い住宅街区の改良事業を進めた。この頃、借地借家関連法令が作られた。背景には都市への急速な人口集中などがあったと考えられる。

 


当時誕生した新中間層は郊外に住宅を求め、私鉄は都心と結ぶ役割を担った。

箕面有馬電鉄の経営者小林一三は不動産開発を一体的に行った。

(同書と関係ないが小林は山梨県出身。宝塚歌劇団の創設者でもある。当時、大阪は日本の地方都市行政の先進地だった。)

 

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b637155.html

放送大学「教育社会学概論」第8章 学校教員についての章

放送大学テキスト「教育社会学概論」を読んでいる。

第8章「教師ー聖職という桎梏」に書かれていたことで閉口したことがあった。

教師又は先生の仕事内容は、あまりに身近に感じている人が多い。だから自明のことだと考えている、という内容がある。ここでは国の公務員制度の中にいる立場と物事を教える専門職としての立場の2つがあることに言及するためにそのような説明がされているのだが、個人的に気になったのはそこではない。

 

身近に感じているから仕事内容を自明のことだと考えている人がいるということだ。

そうか、だから学校への無責任な「意見」や「クレーム」が生まれるんだな。知らないことに気づけないことは恐ろしいことだと思う。これではまるで1億総クレーマー化ではないか。

大抵の人は学校についての報道を見た時しか学校教育に関心を持たない。そして考える材料は自分が児童生徒だった時代の断片的な出来事だ。当時の自分の先生がどんなことを考えていたのかへの洞察もなく、自分の当時の記憶に頼って批評しようとする。

問題点は挙げるまでもないが、整理しておきたい。

1)あなたが児童生徒だったのは何年前のことか。それから学校がどれだけ変化したか把握しているのか?

2)自分が不当な扱いを受けたという思い出の部分だけを切り取って、それを現在の学校の出来事に当てはめれば、視野が歪むことになる。それに気づいているのだろうか。

3)当時のカリキュラムや担任の先生、関わった教員にインタビューをしてみて初めて全体像が見える。見えていないのになぜ批評して良いと思うのか。

4)当時の自分の記憶は正確か。昨夜何を食べたのかもよく覚えていないのに、なぜそんなあなたの記憶を頼りに国の政策を変えて良いと思うのか。

 

学校批判への回答に対してこれらを上手に、オブラートに包んで伝えられるようになりたい。

 

脱線してしまった。

本章の内容は上記の内容とは異なる。

教員が公務員組織の1部であり、国家の都合の良いように子供達を教育するように社会化することを要求され、その一方で専門職としての独立性、自由裁量性などからそれに見合った処遇を求めることから、2者が対立しているという問題がある。

第二次対戦後にILOユネスコは共同でCEART(セアート)という6名の世界の有識者からなる協議会を立ち上げた。同協議会は「教員の地位に関する勧告」を出した。その内容は教職に関する理念、教員養成から労働時間、休暇、給与に至るまであらゆる面を網羅したものである。教職に関する国際憲法とも言われる。

 

その中で定められる教職の専門職としての定義が重要そうなので全文引用する。

 

「教職は専門職と見なされるべきである。この仕事は厳しくかつ長期にわたる学習によって獲得され、維持されるような専門的知識と特化した技能を必要とし、また、個人として、あるいは共同で担当する児童生徒の教育と福祉に関しての責任を果たすことが求められるような公共サービスの一形態である」  CEART「教員の地位に関する勧告」

 

人数構成の国際比較では日本では小学校教員のうち女性教員が増えている印象を受けることがあるが、国際的に見ると少ない方だ。CEARTが日本の学校を視察に来た際に、対応した各地方の教員が全員男性であったことに驚いたというエピソードがある。

 

教員養成課程の国際比較については、日本は実習にあまり重点を置いていないことがわかる。戦前戦中の師範学校に養成から戦後は「開放制教員養成」に仕組みが変わったという背景がある。

大学短大の学部に関わらず必要な単位を取得した者には教員免許状が与えられる。全体主義教育を独占的に行ってきた師範学校制度への反省から策定されたが「ペーパーティーチャー問題」が発生している。

 

小学校教員の場合は朝から下校時刻までびっしりと授業が入っている。授業を用意する時間は取られていない。日本の学校は補助的な事務や作業を行う職員が極めて少ないことから、学校教員がこれ以外に校務分掌を負っている。昨年起きた川崎市プール水道料請求事件では、マニュアルになかったことから水道が止まらなかった事態に対応できなかった教員に対し、川崎市長は水道料を請求するという挙に出た。川崎市以外にも同様の請求事件が起きている。

このような状況下で「教員は専門職」として自己の技能技術の研鑽を積まなければならないというのは不合理だ。カリキュラムが大幅に増えたこの10数年の現状を見れば、1日の半分を教材研究に費やせるようにしなければならないはずである。

 

当然現場教員のストレスと心身の病気が増加している。学級規模が世界的にみて大きい。

指導力不足に認定される教員が2004年をピークに減少に転じているが、一定数の処分がすんだことによる減少である。2010年以降は公的な集計も公表もされなくなっている。

 

テキストの内容は以上だが、「教育の軽視」と言わざるを得ない状況に言葉もない。

村上さんとの思い出

参加させていただいている岡谷市で行われている書評会「岡谷で読み紡ぐ会」の次回テーマ本は浦野理一氏についての本である。着物に詳しい方なら知らない人はいないだろう。「ミセス」で着物についての連載をもち、着物界のリーダーの1人だった。

浦野理一氏は染織工芸家と言われるが、着物をよく知らない人にはの作家、デザイナー、専門家というのが一般にはわかりやすいかもしれない。大正、昭和と着物が廃れずに進化を続けてきたのは、浦野氏の力が大きかったと言える。

例えば小津安二郎の名画に出てくる着物は彼の作品である。伝統的なスタイルを受け継ぐだけでなく、独自のスタイルを生み出していったことで、昭和期の着物の全盛期を作ったことで知られる。多くの着物を好む人々に支持された。

 

浦野理一氏は下諏訪町と縁がある。

浦野理一氏は織の工場(工房)を下諏訪町に持っていた。優良な繭が手に入ることから諏訪地方には製糸産業が盛んだった(あるいは因果関係はその逆なのか?)が、そのうちの織物工場が売りに出ていることを知った浦野氏は、買収して自らの着物製作の拠点「浦野繊維工業」を設立した。浦野氏の作品の多くは下諏訪町で織られたものだった。工場は次男の範雄氏が受け継いだが、質の良い国産繭の入手ができなくなったことから2012年に閉じた。

浦野氏の作品の特徴は「ひょうたん糸」という玉繭からわざと節ができるよう調整した糸を使うのが特徴だった。普通は横糸にのみ使うが、浦野繊維では縦と横の糸に使った。そのため高度な織の技術が必要となり、熟練の職人を必要とした。

職人の1人、村上彪(たけし)さんの当時のメモが大量にこの本に収蔵されている。

村上さんには個人的にお世話になった。私の実家のあった下諏訪町東山田に住んでいらっしゃったため、子どもの頃は地区の行事でしばしば顔を合わせていた。そんな凄い方だったと知ったのは、私が商店街にものづくり工房を誘致する活動をするNPOに参加していた時だ。「空き店舗にものづくりを行う工房を誘致しよう」として始まったこの活動の最初の1人が村上さんだった。村上さんがいなければこの活動は順調に滑り出すことはなかっただろう。事業がうまくいかずに、あるいは事業が成功して転出が決まるなどして他の工房が撤退する中、村上さんはずっと頑張って残ってくれた1人だった。

商店街の空き店舗はその構造上、照明など工房には適していないところがある。村上さんであればもっと条件の良い場所で開業もできたが、私たちの活動を理解して力を尽くしてくれた。村上さんの貢献がなければ下諏訪町の御田町商店街に工房が集まってくることもなかったと思う。この活動が成果を出さなければ、今のような下諏訪町の開業ブームは来なかっただろう。「下諏訪町にはおしゃれな店が最近多いよね」と言ってもらえるが、勇気と根気のいる最初の1人となった村上さんがいなければ、今の下諏訪町はなかった。残念ながら先年亡くなってしまったが、もっと村上さんとお話をしておけばよかったと思っている。

 

工房は他にも岡谷市に「宮坂覚郎織物工場」があった。染織工芸家の宮坂氏が53年に開業した。全盛期の浦野氏を支えた。

職人はベテランの女性たちだった。宮坂氏は彼女たちを毎日送り迎えしていたという。

この本、町の図書館にあるのかな。

www.kinokuniya.co.jp

満洲分村移民を拒否した村長

満洲分村移民を拒否した村長 佐々木忠綱の生き方と信念」という本がある。著者は大日方悦夫さんという方だ。

12月初めに下諏訪国際交流協会の講演会でお話をお伺いすることができた。

 

日本人の多くは「旧満州」あるいは「満州」と呼ぶ。中国語では「偽満」、単に地域を指す言葉としては「東北部」という言葉もある。呼称が明確にそれぞれの国民の見方の違いを示していると思う。日本では当時も現在も彼の地は満州族の土地であり、日本はその独立の手助けをしたのだと考えている人が多い。ところで一方で「満州で中国に迷惑をかけた」と考えるなど、この思考の捩れは一体どこから生まれてくるのだろうと不思議に思う。

実際に同地に行ってみればわかるが、昔から漢族、満州族モンゴル族などが昔から住んでおり、そのほかにも少数民族の住む土地である。古代からいくつもの国家の盛衰が見られた。中原地域とは異なるところはあるが、この地域を中国ではないとするならば中華民国(当時)の多くの地域が似たような状況であった。

話は本題に戻る。

講師の大日方先生は元学校教員、学校長をつとめた。その傍ら長年にわたって同地への移民を全国で最も強力に推進した長野県内の状況を調べ、表題の本を書かれた。先生には他にも長野市空襲の記録などについての著書がある。

講演会は満蒙開拓団による移民を強力に推進した県内の市町村長の中で、特異な行動をとった佐々木氏についての話だった。氏は大下條村の村長(現在の阿南町、役場周辺の地域)としてこの時代を生きた。村長になるまでとその後のお話から分村移民を佐々木氏がどう考え、どう行動したのかを中心にお話しいただいた。

農村の疲弊、移民の必要と対ソ戦の備えとして「満州移民」を国は強力に推進した。農業の近代化の遅れから人口過剰を抱えていた当時、沖縄はハワイや南米への移民が行われたが、長野県は東北部への移民が進められた。

応募者は目標に比べ少なかったという。日本国内にも未開墾の土地は多く、わざわざ海外に行く必要はそもそもなかった。目標達成に窮した国は、各村に「分村」という形で開拓団を作らせ、ノルマを課す制度を設けて移民を推し進めることとした。

佐々木氏が村長をつとめる大下條村にも他村と合同での分村移民要請がきたが、佐々木氏は同意せず、しかし旗幟を鮮明にせずに抵抗する形で被害を最少限に止めようと努力したという。なぜ氏はそのような行動を取れたのか。

私が講演で最も興味深く感じたのは、全体主義の恐怖と同調圧力の中で、なぜ佐々木氏が「これはおかしい」と考えて抵抗できたのか、ということだ。

佐々木氏が若い頃に下伊那地域で行われていた青年たちの学習活動の大きな影響を受けていたという。長野県のような地方において若者の多くは就学の機会が当時なかった。そこで青年組織が知識人を盛んに講師として呼んで、さまざまな講座を開設し学習をしていた。佐々木氏はそうしたグループのリーダー的な役割を果たしていた。実に熱心に学習活動を行っていた記録が残っている。氏は長野の山村にありながら深い教養を身につけた一人だった。

村長になるときに学習仲間が氏を支援した。仲間たちはブレーンとしてだけでなく、活動や事業においても佐々木氏と行動を共にしている。戦後の引揚者の受け入れに奔走していた際に、その仲間たちは富士山麓の開拓などのキーマンとして佐々木氏と共に活躍している。

佐々木氏の考えが後世に伝わったのは、国が村長たちを「満州」へ視察に派遣した際に同行した仲間に佐々木氏が語っていたことが残っているからだ。すでに作物が実っている土地を強制収容し、そこに日本人を連れてこようとしていることに気づき「こんなものは移民ではない」と言い切った。それは、これまで氏が仲間と共に培ってきた教養と勇気がそうさせたのだろうか。

知識は勇気の裏打ちがなければ意味をなさないと考えさせられる。

佐々木氏は村民を守るための最善の措置を冷静に取っていく。明確に反旗を翻せば村長の座と村の主導権を奪われ、国に明確な回答を返さないという形で抵抗したと言う。

行政の立場で言えば「何もしなかった」。「何もしない」ことを「する」と言うのは、実に難しい。現代でも勇ましく改革を唱えていた首長が最後の年に高コストの不要不急の箱物を作ってしまう例は枚挙に遑がない。「何もしない」ことが何を意図しているのか、はっきりと自覚できる深い教養がなければできないことだ。

その佐々木氏も希望して渡満する方々を止めることはできなかった。その彼らの一部が生還したが、彼らの生きる道のために戦後佐々木氏は仲間と共に奔走する。

日本の戦争の正当性を強調し、その価値観を押し付けるのが昨今の流行である。再び日本は過ちを繰り返そうとしているかに思える。佐々木氏の事績から私たちは何を学ぶべきなのだろうか。知性と教養のために学ぶことをやめてはいけない。どのような同調圧力にも負けない勇気を持たなければならない。

小松直人さんに会ってきたお話

下諏訪町で「ミスター御柱」といえば、現下諏訪観光案内所長の小松直人さんだ。小松さんは28歳から8回にわたって御柱に奉仕されている。

 

今日、松本大学で教鞭を取られる木下巨一先生(地域文化論)のご依頼により、学生さんのインタビューに同行する機会を得た。

実はご依頼をいただいて「これは役得というやつではないか」ととても楽しみにしていた。小松さんには仕事その他でお世話になってきたが、ご自宅にお伺いしてじっくりお話をお伺いする機会はこれまでなかった。先年の信州自治体学会で講師をお願いしたこともあり、また観光係在籍時に「しもすわまるごと博物館「宝さがし探検隊」」で御柱講座の講師もお願いしたことがある。ただ、今回小松さんに私が一番聞きたかったことを学生さんが直球で聞いてくれた。「伝統の継承のために、御柱のために、小松さんを動かしているものはなんだろう」ということだが、直球に対して正面から誠実に答えてくださった小松さんには本当に感謝の言葉もない。

 

学生さんからの質問は歴史→地域→小松さん個人へと順を追うように進んでいった。

 

最初に御柱の歴史についてのお話もいただいたが、以前伺ったお話と一部重複部分は他の記事に譲る。今回初めてお伺いしたのは、岡谷市長地(おさち)地域のことだ。

下諏訪町の東山田地区が諏訪大社への奉仕において、さまざまな特別な役割を持っていることは聞いていた。私自身が東山田の出身だからということもあるが、町の事業「宝さがし探検隊」でもそのお話をよくお聞きしたからでもある。

木遣りの中に、旧長地村(現在の岡谷市長地と下諏訪町東山田)にしか伝わっていないものがあるという。私は不学なため知らなかった。東山田が下諏訪町に分村合併する際に、東山田を通して下諏訪町に伝わっているという。旧長地村の伝承に詳しい方の多くが他界しておられるのが悔やまれるとのことだった。

 

上社と下社の違いについてもお話しいただいた。

上社には「メドデコ」という角のようなものがついている。かつては1m程度のもので、柔らかい火山灰土の八ヶ岳の斜面を曳行する際に柱が地面に潜ってしまわないよう、揺らしながら引っ張った時の名残だという。今では大きく派手なものがついている。また、御柱を曳行するための綱「男綱(おづな)」と「女綱(めづな)」が逆であることなども違うところである。

運営体制の違いについては以前信州自治体学会で参加者の方々から、上社は若者を中心にして大総代が運営する体制をとっているが、下社は区長町内会長が運営に関わっていることを伺ったことがある。

御柱の曳行については下社は木遣りで柱が動くことにこだわりがあるが、上社はラッパや太鼓のような派手な演出が目立つという。意識はしていなかったが確かに上社の御柱を見にいった時に感じたのは賑やかさだった。衣装もグループごとに設えるなど、見た目も全く違っている。

小松さんからは御柱のラッパについて伺った。だいぶ以前、郷土史家で今は亡くなられた蟹江文吉さんから日露戦争の後からラッパが吹奏されるようになったと経緯を聞いたことがあるが、木遣り師の小松さんからは少し違ったお話をお聞きできた。日露戦争で諏訪地方も多くの若者を失い、直後の御柱で元気を失った人たちのためにラッパが吹奏され、みんなで引っ張ることができた、という。だいぶ以前い放送大学「コミュニティ論」のテキストに著名な社会学者の倉沢進先生がラッパ吹鳴のことを時代が遡ったような印象を受けたようなことを書かれていたと記憶しているが、小松さんのお話をお聞きすると地域の人々が御柱と共にあの戦争をどうやって乗り越えたのか、少しだけわかるような気がした。

 

担い手について危惧されていることも率直にお話しいただいた。

諏訪で生まれれば「氏子」となって御柱に参加することができるはずだが、昔は若い人は簡単に役をやらせてもらえなかった。今では地域に貢献した人が優先的に御柱の役を担うようになった。雑踏警備の中心である消防団は参加できなかったが、今では優先的に参加できるように配慮しているところも多い。昭和23年から女性も参加するようになった。今後、元綱やてこ衆にも女性がなる日が来るのではないか。女性はかつては接待で忙しいばかりだった(萩倉地域のご高齢の女性のヒアリングをした時に、20代はじめに嫁に来て前回初めて御柱を見たという方がいた)。あと1回から2回はなんとかなると思うが、団塊の世代が去り少子化も進めば、技術の継承はどうなるのだろう、とのこと。

 

私が個人的に最も印象に残ったのは、「小松さんにとって御柱とは」という質問への答えだった。「俺から御柱を取ったらただの人」とおっしゃった。

下社の御柱は木遣りに大勢の人が応えることで動く。「声で気持ちが通じる」ともいうまた、声で神様をお呼びし、神様を山へお返しする、いわば神官の祝詞と同じ重要な役割がある。その意味で木遣師は「神に近い」存在だと思って木遣を歌っているという。声が大きいだけでなく、いい声でなければならない。何回も失敗をして恥ずかしい思いをしたという。「これまで「うまくいった」というのはない」とお考えとのこと。

 

私には小松さんの木遣りに相当するほどのものはないが、ボランティアで教えている日本語も、中国語での通訳も、時々担当するイベントも、どれひとつとしてうまくいった気がせずにいる。

 

小松さんですらそうなのかと思えば、私などまだまだなのだろう。

 

最後に、小松さんの「自分の声で伝統文化を伝える」「喜んでもらう」という言葉が、とても胸に刺さった。

常日頃思うが、現場の人の思いの詰まった言葉は本当に重い。

私にもこんなことを語れる日がいつか来るのだろうか。

今の学校はいかにして「学校」になったのか

「学校ってなに?教育の歴史から学ぶ」(大阪商業大学教授 宮坂朋幸先生)

下諏訪公民館(10月、11月)2回連続講座に出席した。

 

冒頭、先生から「歴史を学ぶ」「歴史から学ぶ」のお話があった。「歴史から学ぶ」とは、何を学ぶのか。歴史を学ぶのは、歴史上同じようなことがあったかもしれない、歴史の失敗から学ぶなど意義がある。

 

本講座は歴史から学校を考えるというもので、初回は寺子屋(手習い塾というらしい)、2回目は日本の近代学校制度「学制」ができた当時の学校の様子をお聞きした。両者を比較してみると、現在の学校が抱える問題点が浮き彫りになるという建て付けで、とてもよく理解できたのでまとめておく。

 

初回、「寺子屋」について。

寺子屋は私が想像していたものとはずいぶん違っていた。私は武士くずれの先生が一斉に教え、従わない者には容赦なく懲罰をくだしているようなものだと思い込んでいた。おそらく歴史小説で読んだ脚色された松下村塾か何かのイメージを持っていたのだろう。

 

江戸時代の「寺子屋」では生徒の進度に合わせる形で読み書きを教えていたという。教える役の人が子どもの後ろや横につき、ひとつひとつ字を教えていく絵図が残されている。

教室内も自由で先生は前にいるが、いちいち手出しをせず、それぞれが好き勝手にやっているような様子だった。テストの代わりにみんなが思い思いの字を書いた展示会のようなものが行われていた。女性が晴れ着のような服装で参加していたのが面白かった。

 

このような「寺子屋」がなぜ現在のような形になったのか。

明治以降の「学校」を比較するととてもはっきりする。

 

明治以降全国に近代教育を普及するために政府が施行した「学制」により、日本の子どもたちの教育の場は大きく変わった。

一番大きく変わったのは一斉に教える形式に変わったことだ。

カリキュラムと時間割が作られ、それを機能させるために生徒の規則が設けられた。登下校指導や生活指導、父母へのあいさつまで決められている。当初は学校就学への地域社会への支持を取り付けるためであった。初期の学校には体育館や保健室のようなものはないが、裁縫室があった。女子向けの実学を教えることで就学への動機づけとしたかったのであろうとのこと。

落第についての規定も決められた。登校しない生徒は放校処分となり、地域で名前が公表される処分が下された。寺子屋時代は「やりたいことをやり、必要な知識が身に付けば良い」だけだったものが、明治以降は選別機能を持つようになった。(教育社会学でそんな話があったかもしれない)

 

効率よく行う授業は、不平等条約改定のための文明化を目指すものでもあった。同時に産業の近代化、とりわけ工業化や国民軍の創設にも資することになった。

 

明治が始まり、国の号令一下近代学校が全国に作られた。当初目標は5万校余りだったという(令和の今は2万弱)。下諏訪にも整備された。先生にご準備いただいた資料の中に町誌などから集めていただいたものがあったが、大勢の子供たちが通学していたことが見て取れた。

 

当時の「学校」は擬洋風の建物が建てられ、「近代」を前面に押し出した。近隣だと松本の開智学校や山梨の三代校舎などに残されている。「教場」(教室のこと)があり、試験は特別にしつらえた別室で行われた。当時の試験会場では先生が前にいる今の形式ではなく、子どもたちの周囲を村の要人が取り囲むように配置されていた。口頭諮問のような試験も行われ、子どもたちは1人ずつ裁判所の尋問席のようなところに座らされて行われていたという。(まさに選別機能そのものではないか)

 

今のような給食室や保健室、図書室はなく、教員は教えることだけに特化しそれ以外は学校事務室にいる学務員(今でいう教育委員会事務局職員だろうか)がすべて担っていた。いつどのような背景で教員にその役割が変わっていったのかはこれまであまり研究がなく、今後宮坂先生による研究が待たれるところである。

 

最後に、現在の学校制度の問題点について受講者で意見を出し合う場があった。私も発言したがうまく説明が出来ず、消化不良になってしまったのでメモしておく。

 

私が言いたかったことの概略は以下の通り。

特にここ10数年の間にさまざまな新しい教育カリキュラムが追加された。「キャリア教育」「学校ICT」「道徳教育」「地域教育」「食育」「小学校外国語教育」などなど、「どんな時代でも生きていける子どもを育てる」ことを名目に続々と導入された。教育内容が中教審から官邸主導に変わり(放送大学大学院テキストから)、この傾向は加速したように思う。

 

教育内容を考えた人々は、子どもたちを思って提言したものだろう。しかし、「地獄への道は善意で舗装されている」とはよく言ったもので、すでに目いっぱいだったカリキュラムに上積みされた膨大な業務量が、正常な学習環境を破綻させつつある。教員の退職や病休が相次ぎ教育体制が破綻した。「教員の働き方改革」という名の誤魔化し政策が始まり、先生のやりがいを訴えた文科省の旧Twitterアカウントが何年もにわたって炎上し続けている。

 

当然ついていけない子どもたちが激増した。学校崩壊を招いたこの問題について、国民や地域の関心は極めて低い。子育てが終わればそれで終わりなのだ。学校の問題は地域には公表できないため(個人情報の問題からできない)、労働環境の悪化と矛盾する国の方針や地域からの一方的な「子どもに〜を教えるべきだ」という要求に振り回され続ける学校と子どもたちの実態はほとんど知られていない。

 

思い返せば、この数十年間の「一般社会の意見」は、子どもたちを振り回してきた。

詰め込み教育」への批判からカリキュラムを減らし自主性を重んじる教育に転換したところ「ゆとり教育」と批判された。

「今の子は自分で考えられない」という批判から課題探求型の教育や「アクティブラーニング」が導入され、子どもたちはひっきりなしクラスメイトや教員からの問いかけやグループ学習に耐えなければならない授業に様変わりした。現場で教員がどれだけ奮闘しても不登校問題は深刻化している。公立中学には大学生のような知能を持った子もいれば掛け算もできない子が混在している。矛盾の中で微妙なバランスを保っている。この子達がグループ学習で発表を強いられれば何が起きるかは火を見るよりも明らかだと私は思うが、国はそんなことはお構いなしだ。一部政治家とその取り巻きの意向を汲んだ「教育なんとか会議」の命令により、学校と地方教育委員会自治は無視され、実態とかけ離れたカリキュラムが押し付けられている。1日椅子に座っていられない子に必要な教育は、本当に小学校英語なのだろうか?

 

自分の探求したいテーマを「探求する」という教育が導入されているが、自分で探求するテーマを「考えさせる」ように仕向けなければならない。雲を見てぼーっとしていたいだけの子供に「なぜ雲にはいろんな形があるのだろう」と思うように仕向けるのが教員の仕事になった。心理学を学んだことのある人ならピンと来るのではないか。これは「洗脳」に他ならない。

勉強しない子に罰を与えた明治の教育は、マインドコントロールといえるかもしれない。つまり、平成令和の教育はマインドコントロールから洗脳に変わっただけで、本質は何も変わっていないと私は思う。そして洗脳にうまく適応できなかった子たちは置き捨てられている。

 

先生のお話にもあったが日本の教育制度はスクラップ&ビルドができていない。古い教育の上に新しく作ることを繰り返してきた。

民間企業であれば現在の学校は経営として「崩壊している」と評価できる。抜本的な経営再建が必要な状態にある。PTA予算が学校設備に流用されるなど、不適切な資金の流れや膨大な人件費の不払いが前提のビジネスモデルは重大な欠陥がある。

重大な欠陥のあるバスによって運行され、運転手が次々と辞めているバス会社があったら、だれもその会社を「健全だ」とは言わないだろう。ただ、政策上「崩壊している」とは言えない大人の都合で「崩壊していない」ことになっている。重大な問題には目を向けたくない忠良なる国民によって今も問題はなかったことにされている。「教員の働き方改革」という言葉や、「誰一人取り残さない教育」という言葉はそのようにして生まれたのだと私は考えている。その言葉を生んだのは政治家の意思決定ではあるが、国民の善意がそうさせたのだと私は考えている。

 

ところで、学校設備の運用など、教育以外のことが教員の仕事になったのはいつからで、どんな背景があったのだろうか。先生方を苦しめる「校務分掌」がいつから始まったのか、先生は研究されているとのことだ。てっきり先行研究があるものだと思っていた。

今までみんな何をやっていたのだろう?部活についてはどうなのだろう。

 

なお、社中学と清陵高校の出身者はお気づきかと思うが宮坂朋幸先生は私の中学高校の1学年先輩のあの宮坂先輩である。

一貫性理論の陥穽

荻上チキさんによる「一貫性理論」についての簡単な説明。

 

www.youtube.com

 

一貫していないものを気持ち悪く感じる心理。

小さなものに同意すると、理論が一貫していればより大きな行動に同意してしまう。

 

一貫していないものは居心地が悪くなる。心理の奥深くに埋め込んでいく。ある理念について「矛盾があるじゃないか」と指摘し始める。目標を果たすことができず「自分はダメだな」と思う。

 

動画ではSDGsを例に成長について述べているが、その逆もあるだろう。

洗脳したりマインドコントロールしたり、パワハラやセクハラのような心理的抑圧が効果を発揮したりする際にも同様のことが見られるのではないか。

 

カルト商法などで営業マンが「さっき言っていたことと違うじゃないですか」「だからあなたはダメなんです」という言葉を使うのを聞いたことが何度かある。

 

個人的には人は一貫してなどいなくて良いのだと思う。

一貫性にこだわると、多様性を排除してしまうことにならないか。

誰もが優秀であるわけではないし、誰もがとことん突き詰められるわけではない。

 

できることをできるだけ力を出し合うことが大切だと思う。

そのための環境を作ることがボランティア活動などでは大切だと最近よく思う。